::: プロデューサー日記 :::
山下 治城
山下 治城
Haruki Yamashita
チーフ・プロデューサー

■出身地
鳥取県 倉吉市

■趣味
舞台を見る。映画(ドキュメンタリーからアニメーションまで)。読書。

■座右の銘
大局観とディテイル

■尊敬する人
宮崎駿

■好きな食べ物
カレー・ラーメン・寿司・蕎麦

■プレイスポット
劇場&映画館

■チャームポイント
ものを見る、まなざし。

■一番大切なものは?
自分に正直であること。

■休日何してる?
舞台鑑賞・映画鑑賞・料理

■好きなCMは?その理由は?
サントリーローヤル「ランボー」篇 学生時代に見た、このCMがきっかけで、僕はこの業界に入った。

■どんなPrになりたい?
矜持をもった人間として生きていきたい。

【代表作品】
◎エステー化学:消臭力
◎三井住友海上火災:企業
◎総務省:参議院選挙
◎レダ:プチシルマ シリーズ




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2008/12/22 - 06:38

「パッケージ幸福論」低レベル安定社会へのデザイン(@ギャラリー5610) 仕事の周辺


最近、ソーシャルデザインという言葉を聞くようになった。
社会へ向けてデザインを通じて何が出来るのか?を問うもの。
今回の展示会でも、「食」を通じて本当に幸せなことというのは何なのか?
ということを考える機会になっていた。
その根本にある考え方が
「低レベル安定社会へのデザイン」という言葉である。
高度経済成長という神話は崩壊し、
極端なほどの逆風が吹き荒れているかに見え、
マスコミはその危機意識を煽る。
それにのせられた国民は閉塞感を強くし、自らの中に篭ろうとする。
しかしながら、よく考えてみたい、
実は高度経済成長の時代と比べて現在の生活の方がより快適で、
食べることに困ったりしていないのではないだろうか?
食材の流通や保存が進み、以前よりも新鮮で美味しいものが
安く食べられるようになった。
右肩上がりの成長と言うものはもはや望めないだろうし、
それを積極的に望むことも意味がなくなってきた時代となった。
その中で、我々は本当に大切なものを見つけだし、考え、
みなと共有することがこれからの社会の一員として
重要なことなのではないかと思う。
そこに、この言葉である。
本当に豊かで安定した社会に向けて
デザインが、パッケージがなしえることは確かにある。
と、この展示会を見て思った。
鹿目尚志氏の総合プロデュース。
そして今回の総合ディレクションとして
中島信也がその役を果たすことになった。
中島さんは、このテーマを決め
そして、そのお題として架空の中島農園でとれた
無農薬玄米のネーミングとパッケージデザインとした。
中島さんを中心とした十人の仲間たちは
日本橋の居酒屋「赤垣」にて気炎を上げながら未来について語った。
その時の結果がこの展示会場にある。
場所は表参道スパイラルビルの裏にあたるマンションの1階。
ここにギャラリー5610がある。
エントランスに掲げられた中島さんの筆書き文字
「パッケージ幸福論」という看板が目印。
プロの手になるものを見ると、無農薬玄米の持つ本質が見えてくるのが面白い。
彼らは無農薬玄米の要素を
因数分解でもするように解体してその要素を再構築していく。
ああ、こうやってデザインが出来上がるんだという
思考のプロセスみたいなものが浮かび上がってくる。
それは広告コピーを書くのと同じではないかと思う。
と同時に、デザインをするというのも方法が違えども考えることは
同じなんだなと確信できる瞬間でもあった。
アウトプットの表現スタイルが違うだけである。
これを映像作品にするということも
実は同じ思考のプロセス抜きには出来ないことなんだろうと思った。
ここには我々の仕事がなしえる未来への提言がある。
それをいち早く発見し、実行していく勇気が
僕たちに求められているのかもしれない。

帰りの表参道の駅に大きなポスターが貼ってあった。
デザインが何か社会のために出来ないか?
佐野研二郎氏や森本千絵氏の作品が掲載されていた。ここにも。


投稿者 山下 治城 | この記事のURL | コメント(0)

2008/09/30 - 10:07

「シリコンバレー精神―グーグルを生むビジネス風土」梅田望夫(@ちくま文庫) 仕事の周辺



梅田望夫が「サバティカル」宣言をした。
と、ブログに書かれていたのは衝撃的だった。
「研究ための長期休暇」を取る。
そのために今後「私塾のすすめ」以降は当分、出版などは行われないと。
ええええ!とショックだった。
いつも梅田望夫の文章に触れるたびに勇気をもらい
未来について考える事ができた。
その文章が読めないなんて!と悲嘆にくれた。
唯一読んでいなかった梅田さんの本がこれだった。
アマゾンで調べて注文購入をする。
書店をさがしてもこの本は見つからなかった。
2006年に出た文庫版である。
2年弱も経つと店頭から姿を消すというのは仕方がないことなのだろう。
数日もするとアマゾンでやってくる。

シリコンバレーのネットバブル崩壊後以降のことを語ったのが本書である。

梅田さんが良くお書きになっているグーグルの萌芽の部分が本書に記されている。
ネット上にある様々なものをグラフ構造化して、
その構造を簡単に分析できるものを開発しようとした
二人の数学者の好きなことへの邁進がグーグルを産んだと書かれてある。
実際には難しすぎてわかないが、
そのグラフ構造であるという直感から
そのWEB(蜘蛛の巣)の張り巡らされた全てのものを
解析しようという発想を信じて突き進んで来たということ自体に驚きを感じる。
そのときは誰もその構造解析のシステムから
あのような優れた検索エンジンが開発されるなんて予想もしていなかったことだし、
その検索に連動した広告で利益を得るという仕組みを考えるに至った経緯は
さらにすごいものを感じる。

梅田は言う。
若いものたちが何か始めたらそれを大人たちは喜んで眺めているだけでいい。
彼らの努力が実るか大きくなるかなんてわからない。
そのわからないものを、わからないまま放置出来、
わからないことを純粋に応援できるのがシリコンバレーの精神なんだろうなあと思う。
シリコンバレーはサンフランシスコの東に位置する。
サンノゼというところが中心地などと言われるが
どこからどこまでがシリコンバレーかという定義はないそうである。
しかし、あの風光明媚で自然が豊かなのんびりとした街で、
ものすごく新しい事が起きている。不思議な感覚である。

梅田は1994年にこの地にやって来た。
そして、1997年にミューズ・アソシエイツを創業する。
本書自体は、その頃に、
新潮社の月刊誌「フォーサイト」に
「シリコンバレーからの手紙」というタイトルで連載されたものがベースとなっている。
単行本自体は2001年に発行されている。
そして2006年に文庫版が出版される。
文庫版のために梅田が新たに書き下ろした、
前書きと、文庫版のための長いあとがきを読むと
2006年に梅田さんが考えていらしたことが良くわかる。

メディア状況が変化しようとしている今、
本書には面白くかつ教訓的なことがたくさん書かれている。
その中でも本書で特に興味を持ったのが
「マドル・スルー」という状態を表す言葉である。
英語で書くと「Muddle through」となる。
文字通り「泥の中を進む」=「先行きが見えない中。
手探りで困難に立ち向かう」という意味だそうである。

今の広告業界もまさにこの状態にあると言えよう。
そしてこの状態をプロセスとして楽しむ文化が
アングロサクソンにはあると中西輝政京大教授は語る。
未来を創造する為にこの状態を積極的に楽しんで
試行錯誤していくことが、今の我々に求められていることの一つかも知れないな?
と本書は教えてくれる。


投稿者 山下 治城 | この記事のURL | コメント()

2008/08/23 - 09:17

「折り返し点1997~2008」宮崎駿(@岩波書店) 趣味の周辺。



宮崎駿の「出発点1979~1996」を読んだのは10年以上前のことになるだろうか?
その本は宮崎駿の発言やどこかで書いたり対談したりしたものをまとめたものだった。
ナウシカ以前から、「紅の豚」の製作あたりまでについてがまとめられていた。小さく発表されたものも全て網羅するような勢いで作られた本書を読んで感動したことを覚えている。
34歳のときのことだった。
こうやってものを作っていかなければならないんだという
覚悟みたいなものを教えてくれたような気がした。
映画造りとは一つの目標に向かって
スタッフ全員が奮闘努力しながらにじりよっていくような作業である。
という宮崎駿の言葉が僕の中に長く残っている。
特にアニメーションは膨大な作業をこつこつと
高いレベルで続けていかなければならない。

先日見たプロフェッショナルで宮崎駿が語った独り言がリンクする。
「ああ、めんどくさい、めんどくさい、ああ、めんどくさい!」
という言葉がそのことを語っている。
宮崎駿は決して温厚な子供好きのおじさんというだけではない。
自らも語っているがその中にある凶暴性みたいな面が、
こういったものを読むとうっすらと感じられる。
ある緊張感を伴う環境を作る。
ものを作るというのはそういったところがある。
ただ、楽しいだけで作れるというものではないんだということは重要なことである。
緊張感を持ちつつ結果的に楽しいものになるのかもしれないが
四六時中楽しい状態というわけにはいかない。
そこから出てくる奇妙なもの、
うんうんうなりながら何かわけがわからないものが出てくる、
いやひねり出すというところから全く新しいものが生み出されるのであり、
その努力なくしてはあれだけの仕事が出来ないということである。

本書は1997年の「もののけ姫」から
「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」そして「崖の上のポニョ」の
企画段階までに宮崎駿が発言したり、書いたり、
対談したりしたものがほぼ網羅されていると言っても過言ではない。
そんな本なのである。
今回は岩波書店から出版されている。
「出発点」と同じ徳間書店から第二弾として出なかったのは何故か?
岩波の編集の強い意向で実現したものだからなのか?
宮崎駿はこのような本を別に出したいと思ったわけでなかった。
しかし、僕のような宮崎フリークにとっては
改めて宮崎駿の発言を再読しながらしかも
総合的に考えながら読める貴重なものである。

通して読んでみると宮崎駿には一貫性がある。
子供たちに明るい未来を残したい、子供たちに楽しんで欲しい。
そしてそれを描くときに自分の中の問題が
無意識に詰め込まれていなければならない。
その問題意識は高く、自分に嘘をつかない。
そこからさらに飛翔してあのような作品群が生まれてくる。
それは大衆性との狭間での葛藤のあらわれでもある。
その葛藤の中から多くの人が見る、
見たいという作品が出来上がるのである。

いま、「ポニョ」の話をすると大抵の人が見ており、
「ポニョ」の話はオリンピックの話と同じような共通言語となる。
それが映画の大衆性である。
宮崎駿はそのメジャー感を獲得するために
自己と葛藤を続けるのである。
そして彼を支える、プロデューサーの鈴木敏夫、
彩色の保田道代、ココロの師でもある5歳先輩の高畑勲などが周囲にいる。
さらに若手のスタジオジブリのスタッフたち。

半径3メートルから企画して考える宮崎駿は
自らの眼をカメラとし、じーっと対象を見つめ、
その記憶が脳の奥底にしまわれていく。
そして脳内で様々なイメージの記憶が発酵し
組み合わさりまったく新しいものが生まれてくる。
この手法に見習うべきものは多い。
リファレンス(参考資料)をもたないイメージの創造がそこにある。
もちろん、リファレンスを持つと言う事が無意味なこととは思わない。

宮崎駿がジブリ美術館を作ったときの言葉が印象的だった。
ジブリ美術館に子供を連れてくる親は、
それを記録するために子供たちを猫バスのところに座らせて写真を撮ろうとする。
子供たちはただ猫バスで遊びたいだけで、
写真を撮られることを望んではいない。
親たちは記録することに一生懸命である。
これはどこかおかしい。
美術館を体験してもらいたくて作ったのに
記録するために来てもらうのは違うかなと。
そこで美術館内での写真撮影は禁止したのです。
と語った。
今や、ほとんどすべての携帯電話にカメラがつき、
何かあると人々は携帯をかざす。
そうやって彼らはそこで起きている事を本当に記憶できているのだろうか?
本当に心の中に留める行為ってそんなことなのだろうか?
という本質的なメッセージがそこに含まれている。

印象的だった宮崎駿の発言。
映画の一番いいところは映画館で見た人がつまらないって腹をたてることなんです。
(中略)
つまり評論がまだ存在し得るんです。
評論家が腹を立てる事が出来るわけです。
それが僕は映画の最大の可能性だと思っています。

最後に宮崎駿が「あとがきにかえて」で語ったメッセージの中で
保育園設立の経緯になった箇所を引用する。
「保育園を作りたい」と思ったのは、
きれいごとでなくて、子供たちによってこちらが助けられるからです。
子供たちを見ていて感じることは、
やっぱり希望なんです。
「年寄りは、小さな子供を見ていると、幸せな気持ちになるんだ」
ということがよくわかりました。

先日発売された雑誌「CUT」に「崖の上のポニョ」を中心とした
宮崎駿と渋谷陽一の対談が載っている。面白い。
ポニョを読み解くのにとてもいいテキストになる。


投稿者 山下 治城 | この記事のURL | コメント()

2008/07/25 - 09:12

「崖の上のポニョ」2008年日本(@ワーナーマイカル妙典) 趣味の周辺。



 夏休み、こどもがたくさん居る。地元のシネコン。
公開されてから間もないからかもしれないが、
なんと!朝の8時半から上映が行われている。
こどもたちは6時半からラジオ体操をして?
帰って来て朝ご飯を食べてから映画館に来ても十分に間に合う時間。
この映画館は拙宅から徒歩数分の場所にある。
しかし、めったに足を運ぶことはない。
普段は、主に都心の映画館で見る。
場所柄家族連れが多い。
というかこの映画だから子供と一緒に来ているのだろう。
昔の「東映マンガまつり」のような。
そういえば東映動画が宮崎駿の原点である。
小学校のときに鳥取県の倉吉の映画館でみた東映アニメの
「長靴をはいた猫」は今でも強く記憶に残っている。
そこからずーっと、宮崎駿の作品とともに大人になっていった。

水中の様々な生物が息づいているシーンから始まる。
海の中の多様な環境がアニメーションで表現されている。
今回、ジブリが宮崎駿が挑戦したのが、
どれだけ手書きアニメを動かすことが出来るのかを
ストイックに突き詰めた作品と言えるだろう。
細部に至るまで様々なオブジェクトが柔らかくたゆたいながら動いている。
カタチが変容しながらたくさんのものが
動いているということは創造するだに、大変な作業である。
ある種の忍耐と時間をかけて
人生を削りながらアニメーションに命を吹き込んでいく作業の結果が出ていることが
映画を見ると良くわかる。
そのアニメーションに対する情熱を感じてココロ討たれる。

ポニョは水中の棲みかを離れて一人広い世界へ。
そこで5歳の男の子ソウスケに出会う。
ソウスケのお母さんは近くのデイケアセンターみたいな施設で働いている。
そこには保育所が併設されている。
これを観ていると宮崎駿がいつも語っている
様々な問題がさりげなく表現されている。
海のゴミ問題。老いるということ、老人と子供が同じ環境に居るということ。
子供が持つ勇気。母親の勇気。そして父親とのつながり。
コミュニケーションの本質。自然の持つ優しさと脅威。
などなど。
様々な要素がエンターテイメントを通じて表現される。
すぐには効いてこないものなのかも知れないが
何かを感じるきっかけになってくれるのだと思う。

面白かったのは水の波の表現に関して。
宮崎はこの映画で大きな波をまるで大きなお魚の群れのように描いた。
自発的な運動体として波を描く。
この発見のことは以前オンエアーされた「プロフェッショナル・宮崎駿」に詳しい。
一枚の宮崎駿のイメージボードがこのようなダイナミックな絵になるのか!
というのが驚きである。
暴風雨の中、デイケアセンターからいったん、
崖の上の自宅にソウスケとお母さんがクルマで戻るシーンがある。
圧巻。
大きな波が襲い掛かる。と、その大きな波に乗って水しぶきをあげながら
その上を走るように滑るようにやってくる女の子がいる。
人間となったポニョである。
ここの表現を見るだけでも一見の価値はある!

個人的に最も感動したシーンは
自宅に居たソウスケが船の乗組員である父親と
光のモールス信号で交信するところ。
窓外を双眼鏡で見張っていたソウスケは
ついに父親の乗る船を発見。
そこで父子が照明灯をチャカチャカさせながら
モールス信号で交流する。

この映画には、携帯電話は一切出てこない。


投稿者 山下 治城 | この記事のURL | コメント()

2008/07/19 - 10:49

「私塾のすすめ」斉藤孝・梅田望夫(@ちくま新書) 仕事の周辺



梅田望夫が彼のブログの中で、本書の出版を最後に
サバティカルな期間に入ると宣言した。
サバティカルとは、要するに充電期間みたいなもの、
研究のために外部に発表することなどを控え
長期の休暇を取るといったような意味のことであるらしい。
梅田望夫はこの数年猛烈な勢いで有名人化していった。
「ウェブ進化論」がそのブレイクのきっかっけだったことは間違いない。
「ウェブ進化論」で本当に多くの勇気と視点を変えることを学ばせて頂いた。
人生観が変わったとまで書くといい過ぎかもしれないが、
それくらい根底を揺るがすようなことがたくさん書かれてある。
そして、梅田さんの書いたものや対談が
これからしばらく出版されないかと思うと,
残念である。
そして、梅田さんの文章に出来るだけ多く触れたいと思い。
梅田さんの書いたもの対談を全てチェックし、
彼のネット上に書いたもので読んでいないものがないのか
あらゆる角度からチェックすることになった。
斉藤孝という、梅田さんとはまた違った価値の持ち主との対談が
刺激的な相乗効果を産んでいる。

 「私塾」とは福沢諭吉先生の教えそのもの。
その精神が今、ネットという新しい世界を通じて
再構築できないかという希望を語り合っている。
「独立自尊」で「学び続けること」こそが重要であるということ。
実は、そのことは誰にでも開かれており、好きなことを見つけて、
好きなことに徹底的にのめりこみ学ぶ環境は
自ら作っていけるということである。
明治時代の私塾ならばそこまでは開かれていなかったろう。
しかし、現在はパソコンとインターネット環境さえ整っていれば
どこからでも語る事ができる。
NYに引っ越した元会社の後輩とスカイプを通じて顔を見ながら話すことが簡単に出来る。
電話だけでは伝わらない情報がスカイプ経由で届ける事が可能になる。

梅田さんが語ることは基本、彼の著書「ウェブ進化論」「ウェブ時代を行く」に
ほとんど全てのことが書かれているのだが、
本書を読むことによってその考え方を喋り言葉で再確認する作業が出来る。
人間はこうやって繰り返しあることに触れていないと
身体に沁み込むということにならない。
そのために多くのパターンで同じ事が書かれているものを
多読することも価値があることなんだろうなとも思う。

 斉藤孝が大学生の日本語能力の話をする。
「ウェブ進化論」の一部を引用した後、
「実は今の大学1年生の多くには入ってこないのです。
国語で言う現代文の力があまりにも不足している。
僕も若い頃は難しい言葉を使って論文を書いていました。
(中略)今の時代は話し言葉のようでないと
多くの人にはなかなか伝わっていかない。」と。

なーるほどなあ!
読み解き能力の不足から来ることはコミュニケーションをするという基本につながる。
そこをきちんと教えていかないとかなりヤバイことになると思った。
それは常日頃から学生を初めいろいろな方々と接している
斉藤先生だから持ちえた考え方なのかも知れない。
斉藤先生は出来るだけ多くの人に強引にでも振り向かせ
興味を持ってもらうようなことを実践されている。
逆に、梅田望夫は、興味を持って自らの意志でやってくる
若者たちには開かれている。
それはあるクラスを限定するのかも知れないのだが、
そういった意志のあるものたちが集まって
未来の世界を日本を考えていくという志に満ちているのである。

そこが梅田さんと斉藤さんの大きな違いといえよう。
斎藤さんは全体が上昇していくことを基本においていらっしゃる。
ボトムアップ志向であり、
梅田さんは斎藤さんがボトムアップした人たちを
引き連れて行くリーダーたちにどのように刺激を与えていくのがいいのかを
自らと一緒に考え続けているのだろう。

まるで明治維新の志士に対する私塾のように。

 また現在の自分に置き換えられるようなことがここで語られる。
量をこなすということ。
ここで、梅田は「NO」と言われる事を怖れるな!と力説する。
多くの人にオファーし続けることによって
自分のことを理解できる人が100人に一人くらいは現れるだろう。
その出会いはまさに幸福な出会いである。
その幸福な出会いを増やすためには「NO」と言われる事を怖れていては
何も出来ないよと梅田は語る。
99回の「NO」を上回る1回の幸福な出会いを求めて、
アクションを起しているのかどうかということを梅田は問いただす。
その梅田の考え方のベースは諦観にあると言う。
どうせ、まず人間同士が簡単に分かり合えるはずがないというところから
彼の考え方は始まっている。
梅田の分かり合えるという意味は簡単ではない。
深い、心や考え方の部分である。
そんな気持ちや考え方を一朝一夕に共有出来る筈はないと思うのは当然である。
だから梅田は、その人の頭の中の分身でもある
ブログなどをお互いに読みあい共有し合い、
結果、幸福な出会いのスタート地点を早くすることが重要である
というようなことも同時に語っている。
そのためにはある一定量以上の人たちに働きかけないと
いけないという考え方に共感する。

 また、斎藤さんの言う、自己内対話という考え方も重要なポイントであると思う。
自己に徹底的に向き合い分析することが重要であると斉藤孝は語る。
そして自己に向き合う他者をどれくらい住まわせることが出来るのかということも。
他者が多ければその人の価値も含めて一緒に生きているという感覚になるだろう。
そのためには他者とも徹底的に話し合う時期が必要だと語る。

そして二人はこう思う。
「気持ちが通い合う私塾が欲しいという思い」
いわゆる「私塾願望」がインターネットの空間で満たされることの希望を語る。
二人の対話を通じて獲得されたことのひとつに過ぎないのかもしれないが、
対話からこの人とは用事がなくても会って話したいと思える関係になれる
ということが後書きで書かれている。(梅田さんと斉藤さんの関係)
その関係性の獲得は、まさに徹底的な対話を通じてのものだったのだなと確信した。


投稿者 山下 治城 | この記事のURL | コメント()

2008/06/24 - 08:08

「IMC TOKYO2008」(@幕張メッセ) 長文! 仕事の周辺



先々週、Interop Media Convergence と名付けられた
展示会が行われた。
放送・映像・ネット・モバイル・web・・・。
のメディアコンテンツビジネスの新時代を支える専門イベントである。
もともと、Interopというイベントがあり今年で15年目になるらしい。
これはインターネットを利用したビジネスを展開していくための展示会である。
様々な会社がブースを出している。
ここで、この日、初めて聞くようなことがたくさんあった。
興味深い展示会だった。

まずは、村井純(慶応大学教授)の基調講演を聴いた。
「地球とインターネット」と題した講演は刺激に満ちていた。
「インターネット」のことと言えば村井純というイメージがあるように
さすがにこの世界に詳しく、語っていることは
遠くの未来を見据えた概念まで示している。
45分間の講演ではとっても収まりきれないような
情報量の講演内容であった。
情報量が多いものを聞いていると
密度が高いので聞き飽きない。

まずは、いま現在のデジタルコンテンツや
インターネットの世界がインフラを含めてどうなっているのかを概観される。
ワンセグチューナーやアクトビラ、そして今回初めて聞いたものが
「デジタルサイネージ」という言葉だった。
高密度ディスプレイを屋外に設置して、様々なコンテンツをそこで流す。
もちろん、場所や時間、また、そこに集まると予想される人によって
コンテンツを変えていくことが出来る。
ホストサーバーでそれを管理して、
まるでテレビ番組を流すように、駅張りのポスターを時間に応じて
張り替えるように制御することが出来るようになる。
実際、大江戸線を初め、いくつかの場所で少しずつ
「デジタルサイネージ」の実験的なことが行われている。
そこにはデータ転送の技術なども
重要な問題として絡んでくる。
フォトニックネトワークの進化と村井教授は言う。
言うなれば、「光ファイバー」のネットワークが
至る所に張り巡らされるということ。
例えて言うと、光ファイバーのじゅうたんが敷かれているというような感覚である。
実際に港区では、「光のじゅうたん」がほぼ実現出来つつある
というようなお話を聞いた。
実際、今、広告業界でも「OOH」メディアというものが増えている。
これは「out of home」という意味であるが、
屋外に出て何かのメディアに接触すること
これが現在ではTV、新聞の広告費に次ぐ売り上げである。
「OOH」のひとつのスタイルとして
「デジタルサイネージ」というのは大変重要なものの
一つになるのではないかと思われた。
光ケーブルとワイヤレスの高速転送技術を駆使して構築される、
「デジタルサイネージ」の大きなネットワークはまるで
新しいメディアを持つことになるように、思われる。
そしてそのデータのネットワークは個人識別も出来るようになり、
外にいても反応したり接触することにより
インターネットの個人PC経由或いは個人ケータイからアクセスするのと
同じ状況が作れてしまう。
そして、Aさんというのはどんな人で、
今、どこに居るのかということが瞬時にデータとして認識できる
環境が整いつつあり、そのためのデバイスが日々増えて来ている。

「位置・空間・時間」を認識した「個人」に強烈にフォーカスした
コミュニケーションがますます増えてくることが予想される。

また、村井教授のお話で興味深かったのが、
時差が6時間以内の国の人々とは
リアルタイムで仕事が出来る環境を作れるだろうということ。
そのためには、アジアやロシアへ結ぶ大きなデータ伝送の
ケーブルのインフラ整備が必要であるという。
現在では太平洋と大西洋は大きなケーブルが設置されており問題ないのだが、
これからの地球の未来を考えると、
ハバロフスク経由でシベリア鉄道を行くように敷設されるラインと、
シンガポール、インド経由で中東までを敷設される
ラインの整備について求めていらした。

今後、米国や欧州だけに向いていてばかりいられないという
村井教授のお話は説得力があった。


杉山恒太郎さんの基調講演では、
最近の若いものはPCさへ持たない人が増えて来ているという
調査データを発表されていた。
そのためには、モバイルコンテンツに特化した方策を
真剣に考えないといけないとおっしゃっていた。
10代から20代前半の若者たちは
ケータイの両手打ちをする人が増えているらしい。
まさにパソコンの感覚である。

続いて「次世代広告プラットフォーム:デジタルサイネージの将来展望」
というカンファレンスを聴く。
モデレーターは慶応大学教授の中村伊知哉。
スピーカーはNTT副社長の宇治さんと
電通メディアコンテンツ本部の杉本さん。

来年からこのイベントに「デジタルサイネージ」部門が加わる事が決定されたらしい。

これに関しては村井さんのところで
大まかなことは書いたので重複するところは省くが、
面白かったのは現在、若者を中心とした人々の
外出時間が伸びているという調査結果が明らかになったことである。
生活者は明らかに外に居る事が多くなり、
そのためのメディアである
「デジタルサイネージ」は今後ますます注目されてくることになるだろう。
ここでは倫理的な問題と景観的な問題を
どうクリアしていくかが問われてくるだろう。
そうしないと、渋谷や池袋の繁華街のような
いつもどこかのモニターから大きな音が流れ
それらが騒音として溢れかえる。
そんなことにならないような素敵なメディアと
そこでの気持ちのいいコンテンツが本当に求められてくることになるだろう。

杉本さんはそのためにはコンタクトポイントマネジメントが重要であると語っていた。
このマネジメントという概念に強い倫理観が求められる。

また、慶応大学湘南藤沢キャンパスの研究所所長、
國領二郎の話はもっと根源的な原理について語られていた。
WEB2.0の進化の先にはユビキタスとセンサーの進化により、
ネットのあちら側とリアル社会のこちら側が
今以上にリンクしていく筈である。
これを國領先生は「ユビキタスにカスタマイズされたマーケティング」と呼んでいる。
GPSがさらに進化すれば、携帯電話を持っていれば
Aさんはどこのビルの何階のどの会議室の
どこの椅子に座っているのかがわかるようになってくるだろう。
そこから、誰がいつどこにいるのかが特定できることによって
「つながり」がもたらす価値が生まれてくると言う。
例えば今居る場所に届けるサービスである。
花見の場所にピザが届けられることの
さらに進化したものだと思うといいのかも知れない。
そして國領先生はそうやって生まれてくる価値を
「創発のプラットフォーム」という言葉で語る。
多分、異分野や異業種がつながって新たな価値を生み出すということなのかな?
そのためには制約と冗長性が必要であると語る。
國領先生はかなり難しい言葉で概念的な事を語られるので
ついていくのが精一杯だった。
聴いていて思ったのだが、要は、あるルールを統一して、
その環境の中から自由に物事を進めていくことが重要であるということ。
リナックスというOSの基本ルールのもとに
優秀なヴォランティアSEたちが自由に改良を加えていくことが
この一つの説明の例示になるだろうか?
そして誰もが自由に使えるようになった環境から、
集まった多くの人に興味を持ってもらったものに対して
小額を課金していくシステムが利益を生んでいくと先生は語る。
梅田望夫いうところのロングテールの思想である。
國領先生はそのことを「創発的な価値の内部化」と語る。
うーん。なかなか理解できない。
また現在の広告費は6兆円であるが
販促費は約12兆円くらいと推定される。
その価値をこのインターネットデジタル社会で
別の用途に使われるようになるかもしれないとおっしゃっていた。
(ダイレクトマーケティングの隆盛は、
まさにそのことを示している一つの例ではないでしょうか?)
また、グーグルなどが始めている
アプリケーションの無料サービスについて言及される。
タダ同然のアプリケーションが増えることによって、
それを利用する企業が増えていけば、
確実に現在、企業で設備投資の一環としての
アプリケーション費用やその他の費用が
別の価値に置き換わるに違いないと語っていらした。
楽観的過ぎるかもしれないが、
その楽観性の中に可能性の芽は潜んでいると言えるのかもしれない。
ユニクロの柳井社長の語る、
「一勝九敗」の思想と似ている。

経済産業省の情報政策局長、岡田秀一さんの語る、
グリーンITの取り組みのお話も興味深かった。
IT化に伴う電力などの使用量の増加に対して、
環境問題に配慮しながらどのように
グリーンITを進めていくのかという取り組みの現状などについて語ってくれた。
グーグルはデータセンターを米国の水力発電所のすぐ傍に作って稼動させている。
そのことによって自然エネルギーを再利用し、
発電所の近くということで送電ロスをも減らせるということだそうである。
有機ELやLEDのさらなる発展によって
電力使用量は劇的に低下していくことが出来るだろう!
無限のものなんて何もない。
無限だと信じられる唯一のものが人間の知恵である。
その知恵を駆使してグリーンITを乗り切ってみたいものである。


投稿者 山下 治城 | この記事のURL | コメント()

2008/06/13 - 07:58

「山のあなたー徳市の恋」2008年日本(@テアトル新宿) 趣味の周辺。



清水宏の「按摩と女」(1938年)を初めて見たのは昨年のことだった。
奇妙な印象に残る映画だった。
石井克人監督はその「按摩と女」をそっくりそのままカラーに置き換える実験を行った。
そこから見えてくるものと
見えてこなかったものによって「按摩と女」という映画の中に隠れていたものが
あぶりだされ、リメイクされた「山のあなたー徳市の恋」との違いを発見し
面白く思えた。

細かく分析するというようりも、映画としての両者の読後感について
考えた。
まずは圧倒的に撮影の技術が向上しているので
その情報量の豊富さには目をみはる。
雨の河原にかかる沈下橋に蛇の目傘を持って佇む
マイコの姿は本当に美しい。
ああ、こういったシーンをきちんと見られることの幸せといったらない。
ただし、見えすぎることによる弊害もある。
それはここから後ろはマットペインティングだろうか、
このシーンはグリーンバックで合成されているのではないかと
勘繰ってしまう自分がいる。

また、俳優が違うというところが最も大きな差を出している。
まったく同じように作ろうとしても
その時のオリジナルになってしまうということである。
草薙剛の演技と身体がいい。
加瀬亮の顔がいい。
マイコは最初、本当に彼女で良かったのかと気になってはいたが、
見ているうちに彼女の美しさも含め好感を持つ。
そして三浦友和がいい。
彼は当代きってのバイプレイヤーになった。
そして、この映画で最も素晴らしかったところは、
清水宏の持っている、この映画の「飄逸さ」というようなものを
しみじみとした心情を下敷きにしながら描いたことにである。
そのとぼけたような味わいの中からメクラである徳市(=草薙剛)と
東京から来た女、三沢(=マイコ)の結ばれない恋が描かれる。

そういえば、これってフェリーニの「道」にも似ているなあと思った。
美しく不幸な女とそれを守ろうとして守れない心優しい男の物語である。

この構造には人間の心を揺さぶる普遍的なものがある。

清水宏35歳のときの作品を石井克人が40歳を過ぎて甦らせた、
と思ったら実は石井監督のオリジナルになっていた。
という、
石井監督のおとぼけが静かに表出している佳作である。


投稿者 山下 治城 | この記事のURL | コメント()

2008/06/06 - 16:20

「眠れぬ夜の電波ハイジャック」水木英昭プロデュース(@博品館劇場) 会社の周辺

社長のリクエストにお応えして、宮本大誠の舞台レビューです。

(以下レビュー)

エンターテイメントとはこうあるべきである、
ということを直球ストレートに教えてくれる舞台だった。
こ難しいことを考えながら人間はいかに生きるべきか、
ということを深刻に語るだけが演劇ではないという
素晴らしい例を見せてもらった。
こういったメジャー感あふるる舞台に触れることで幸せになり、
また舞台に足を運ぼうとする気持ちになる。
舞台上ではその熱気が充満していた。
千秋楽ということもあるのだろうが
観客席ともども異様な盛り上がりでこの舞台は締めくくられた。

この脚本自体、水木が1997年に
スーパーエキセントリックシアター在団中に上演したもの。
10年経っても面白いということは、
この脚本がいかに上手く書かれているかということの証拠とも言える。
三谷幸喜の名作「ラジオの時間」や「ショウ・マスト・ゴー・オン」を彷彿とさせる。

場所は国営放送NKHの館内である。
この公共放送が深夜に初のバラエティ番組をやるというところからこの舞台は始まる。
NKHはバラエティ番組があまり得意分野ではないので、
お台場や赤坂から優秀な人材を引き抜いて
番組制作のスタッフィングをしたのである。
今でいう「サラリーマンNEO」のようなものだろうか?

NKHのチーフディレクターの悲哀を含んだ役回りが面白い。
NKHという大きな組織の事情と、予算、スケジュール、
大物タレントのわがままなどの板ばさみで
どんどんと変な方向へ進んで行くのが面白い。
しかし、ぎりぎりのところで品位を保ちプロとしての
バランスを取るという姿勢が共感を呼ぶ。
曽我泰久演じるNKHチーフディレクターは、
身体のキレも喋りのテンポ感もいい。

彼は元ジャニーズ系でたのきんトリオ時代に一緒に活躍していた
有名な俳優だったということを、上演後の飲み会でTさんから教えてもらう。

そして、落ち目のイリュージョニスト(引田天弘のような!)であり
女優を演じるのが、元宝塚の高嶺ふぶき。
彼女のわがままぶりがいかにもイジワルな大女優という感じで面白い。
しかし、その影には彼女なりの苦労と苦悩があるということを
観客は後になって知ることになる。
水木英昭演じるところのお台場から引き抜かれた音楽に強いディレクターもいい。
作・演出だけあって淡々と演じているところから
この舞台のテンポを作っていく。
重要なペースメーカーである。
この舞台はテンポ感が重要。
ちょっとした間と突っ込むスピードによって面白さの度合いが全然違うものになる。
楽日のテンポは完璧だった。

そして、水木英昭プロデュースの常連であり、主役であるのが宮本大誠である。
宮本の演じるのは、上司を殴って局を首になったフリーのディレクターである。
彼は昔、忍者モノのヒーロー番組を手掛けていたという設定である。
その伏線が最後に大爆発する。おいしい役である。
発声も自然と極端とを使い分けており、そのバランスが上手い。
宮本だけが4スタジオという今は誰も使っていないスタジオに出る
幽霊が見えるという設定である。
演劇的な手法で見えること見えないことを描いており、
そのことがコントに転化していく様は見事である。
宮本大誠は以前、僕の会社の同僚だった。
学生時代に持っていた俳優になるという夢をかなえるために会社を辞め、
あれから10数年が経つ。
違う場所で頑張っている宮本の姿を見せられると、
本当に嬉しい気持ちになる。
彼も、もう42歳になる。
欲を言えば殺陣のシーンの身体のキレである。
そこを、身体トレーニングでさらに素晴らしいものにして欲しいと思う。
舞台での俳優の身体の動きを、観客は見ていると同時に全身で感じている。

高嶺ふぶきのプロモーションビデオは最高だった。
あれはいったい、誰のアイデアだろう?


投稿者 山下 治城 | この記事のURL | コメント()

2008/06/02 - 18:18

「発想と行動力」安藤忠雄特別講義(@早稲田大学理工学部教室) 個人の周辺

Tさんからメールを頂き、へえ!
こんな講義があるんだと思った。
しかも誰でも参加できて無料ということを聞き、
早稲田大学大久保キャンパスへ向かう。
昔ながらの教室や校舎ももちろんあるのだが、
安藤先生の講義のあった63号館はものすごく新しく
ハイテクを駆使した校舎である。
構内情報などは液晶テレビに全て表示されている。
この校舎には立て看は似合わないかもと一瞬思った。
建築学科の先生か卒業生がデザインしたであろう校舎は本当に素晴らしい。
エアコンも完備で、暑い中、セミの声を聞きながら
窓を開け放した中で聞いた
僕たちが学生だったころの大学の風景とはまったく違う光景がそこにはあった。

ぎりぎりで教室に到着。
初めて行くものには学校は迷路のようなところがある。少し迷う。
教室は立ち見が出ており生徒・教職員などでぎっしり。
横長に拡げられた教室はスクリーンが4つ並べられており、
そこにはパソコンからの映像データが映し出されている。
担当教官の挨拶の後、安藤先生のお話が始まる。

聞いていて、建築家は活動家でならなければならない、
そのためには多くの人々を説得して回らなければならない。
そのためには説得の技術を持たねばならない。
説得の技術の最初は言葉である。
安藤先生の喋り言葉はそれだけ説得力を持ちえるものである。
流暢な語りは留まる事をしらない。
もちろん大学で教えていられる回数は尋常な数ではないだろうから、
そこから安藤先生が獲得してきたこともあるのかも知れない。
満員の会場は私語を語るものは誰もいなく皆真剣に安藤先生の話を聞いていた。
それだけ面白いお話だったのである。
安藤忠雄は大阪出身の建築家だったので、
大阪に居た僕は学生時代から興味を持って、
安藤忠雄関連のイベントにいったり
実際に作られた建物を見に行ったりしたことを思い出す。
当時はコンクリート打ちっぱなしというような建築はそう多くなく、特異な個性だった。
それからの安藤忠雄はまるで疾走するかのように
多くのプロジェクトを手掛け作り続けておられる。
それは大阪に留まらずもちろん日本国内にも留まらない、
「住吉の長屋」が出来たのが
1974年のことである。
それから30数年近く疾走している姿は、本当に格好いい。
まるでアスリートを見るような感覚で安藤先生を見てしまう。
一流の芸術家と一流のアスリートに通底するものが何かある。

そして芸術家には理解者が必ず傍にいる。
それは彼自身の魅力にと理解者の魅力が出会う場所がどこかにあるということ。
サントリーの佐治敬三さんのお話をされる。
佐治さんは安藤さんと会うと新地に飲みに連れて行ってくれたそうである。
その後しばらくたって、
「ところで安藤君、君は何をやってんねん?」と質問される。
「建築家です。」と答えると。
「そうか?そしたら天保山にサントリーの美術館を作る計画があるから
やってみないか?」と佐治さんはおっしゃる。
二人は試しにどんなものを作っているのかということで
「住吉の長屋」を見に行く。
佐治さんは「なんやこれは住みにくい家やなあ。」
といいのこして帰る。翌日、佐治さんから呼ばれていくと、
「昨日の家は住みにくいが面白い、美術館をやってみたら?」
ということになったらしい。
「やってみなはれ」の精神である。
父親の鳥井信治郎譲りのこの言葉を
佐治敬三が引き継ぎ伝承する。

安藤先生がサムエル・ウルマンの詩を引用する。
「青春」という詩である。訳は宇野収。

青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方である。

という一節でこの文章は始まる。そして最後に。

理想を失うとき初めて老いる。

と。安藤忠雄はこの詩の説明の後を続ける、
私たちは、はみだしていかなければならない、
はみ出していくことによってアイデンティティを獲得する。
と。
また、このようにも言う。
リーダーは判断して前へ進むことが大切である。
その判断をするというのは、実は、仕事などを通じた
ギリギリの緊張感がないと判断できない。と。

安藤忠雄から発せられる言葉は生きていく上での宝となりうる言葉である。
決して貨幣価値には変えられないものがここにあるのだと教えられた。
このようなことを二十歳くらいで聞くことの出来る
早稲田の学生たちは何て幸せなんだろうと思った。
経済的な理由と秀才でなかったという理由で
安藤忠雄という天才は大学に行かなかった。
その安藤さんが、学生たちに語る。

こんないい学校に入ったのだから死に物狂いで勉強しなさい、
たとえが悪いですが、病気になるくらいまで勉強してみてください。
と締めくくられて素晴らしい講義が終わった。
満場の拍手が会場内に響いた。


投稿者 山下 治城 | この記事のURL | コメント()

2008/05/23 - 07:44

「テレビ進化論」境真良(@講談社現代新書) 仕事の周辺


タイトルは明らかに、梅田望夫「ウェブ進化論」を意識してのことだろう。
豊洲の紀伊国屋書店に1冊だけ置いてあった。
先日、渋谷のブックファーストに行くと、大量に平積みされていた。
新聞広告で見て、興味を覚える。
いまだに書籍などに関しては
新聞から、偶然の出会いの情報を求めている。
アマゾンのオススメ機能とは違った偶有性がここにはある。
同じ意味で編集された、書店にも同じようなことが言える。
青山ブックセンターなどはその最たるものだろう。

著者の境真良は元官僚。
経済産業省でコンテンツ政策に携わっていた。
現在は早稲田大学客員准教授。
元官僚だけあって、語り口が官僚っぽいのが面白い。
日本のコンテンツ界、いや通信産業と放送産業までを
包括した論旨を展開する。
2011年に地上デジタル放送に完全に移行するための
業界の未来を描いている。
官僚とは国の未来を思い描ける人がならなければならないんだな、
と改めて思う。

そのためには減点法ではなく加点方的な評価のシステムが出来ると、
官僚という仕事がもっと魅力的になるのではないだろうか?
しかし、そのような志向を持つものは官の世界から飛び出し、独立する。

先日、東大に多くの人材を送りこまれている高校出身の方が、
同窓会に出席された話を聞いた。
卒業してから会社を変わっていない人の方が少ない。と。
ここに時代の気分を感じる。
とともに大きな価値観の変化が
この20-30年の間にあったのだろう。

本書はまず、「ギョーカイ」の特殊性から語られる。
歴史的な認識なくしてはものごとを語れないというのは
どの世界に於いても同じである。
芸能界、TV業界、映画業界など、彼らは自分たちの持っている
既得権益を守りたいと思ってる。当然である。
既得権益の中から利益は生まれてくる。
いつまでもブラックボックスのような状態で
ものごとが作られているならばそれでよかったのかも知れない。
しかしパソコンとインターネットの普及によって
そのこと自体が現実的に崩壊しつつある。
誰でも、コンテンツを簡単に作る事が出来、
そして誰でもがインターネットを通じて発信できるようになった。
そのことによってギョーカイのブラックボックスは崩壊しつつある。

日産のNOTEのCMなどで起用された「GOLDEN EGGS」や
アニメーション作家「新海誠」の登場などはまさにその典型的な例である。
特に、これらのコンテンツはタレントさんが絡まないのでさらに浸透しやすい。
タレントをコンテンツに登場してもらうというところになると、
芸能界と仁義を切り結ぶという必要が出てくる。
しかし、それも徐々にではあるが崩れつつある。
芸能プロダクション自体が新しいコンテンツメーカーとして
新しい才能を多くの場所に求めているからである。
そのためには、多くのことを学び知り、審美眼を磨く必要が
ますます重要になってくるだろう。
優れた才能が出やすくなったという意味では、
大きなチャンスが僕たちの目の前にある。
その審美眼(「目利き」みたいなもの?)を持った人が
優秀なプロデューサーになっていく可能性は大いにある。
実行力がそれに伴う必要があるので一筋縄ではいかないのだが。

それは熱意という言葉に置き換える事が出来るだろう。

映像コンテンツのロングテールという話も面白かった。
いままではマイナーな映像表現だったカルトのようなものが、
ある層に強く受けいれられることによって、
新たな映像コンテンツの価値が生まれてくるということは
いままでになかった現象かも知れない。
そのコンテンツが瞬時に検索され、
そこに広告の課金システムを組み入れていこうとするのが
グーグルの野望であり、U-TUBEを買収した理由のひとつであるだろう。

映像の好みのオススメシステムに近いものが出来つつある現在、
実現性の高い話だろう。
画質の問題も早晩改善されるということも記してあった。

第二日テレの土屋敏男は言う。
「コンテンツの力の源泉は『個の狂気』である。」
と。
そういった個に負けないように、
コンテンツメーカーたちは日々、「審美眼」を磨き、
「努力」しつづけなければならないのだと改めて思った。

最後に、デジタルコンテンツ法制という考え方に興味を持った。
この法制化が、官主導で行われるのだろうか?
そしてこの法律がデジタルコンテンツの
改革の旗手となりうるのだろうか?


投稿者 山下 治城 | この記事のURL | コメント()

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